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闘病記/一瞬「死」が頭に浮かぶ/早期に気付いた検査技師へ感謝


 超音波検査技師の浅黄早弓さん。彼女は私の命の恩人である。二度目の手術のための術前検査を受けに行ったとき、検査室で声をかけられた。

 「あれ、与儀さんどうしたの?」「この前の検査の結果、実はがんで、また手術なんです」「そうだったんだ。今回、半年前の検査で見たときと比べて乳腺の形が少し違っていたから気になって、一応、宮良球一郎先生にコメントを書いたのよ」と話してくれた。彼女の積み重ねた経験と勘が乳がんのサインを見逃さなかった。

 主治医はよく言っている。医師だけでは正しい診断ができないことがある。レントゲン技師、超音波検査技師、看護師、皆が一丸となってチームワークを発揮し患者を診ていくのだと。浅黄さんのコメントをみて、主治医は自らエコーでそれを確認し、細胞診検査をした。結果は「良性と思われる」。

 しかし主治医はその結果に不満のようで「思われるではなく、百パーセント良性であるって出ないとね」と、さらに組織検査を追加した。結果、悪性であることが分かったのだ。私が使った抗がん剤は一番強いもので、しかもよく効いていたはずだ。それなのに、新たに見つかったがんは、その抗がん剤が効かないほど強いがんなのか…。一瞬「死」が頭に浮かび、かき消した。

 私が再び手術を受けることを知った周りの人たちの反応はさまざまだった。泣き出す人、安静にしてないで無理をしたのだろうとしかる人。でも、皆、私のことを親身になって心配してくれてのことだった。ただ「ピーチパイ」や、同じ乳がんを患った人たちには、できれば、知られたくなかった。中には私の抗がん剤がとてもよく効いたということを励みに、同じ抗がん剤の治療に頑張っている人もいた。皆にどれほど不安を与えるだろうか。でも、隠し通せるものではない。どう対応していいか分からなかったが、とりあえず、今は自覚症状がないしそんなに心配しないでください、という気持ちを伝えるしかなかった。

 乳がんは早期に発見し、正しい治療を受ければ決して怖い病気ではない。怖いことは、乳がんを見つけられることではなく、乳がんを見落とされることだ。今回、浅黄さんの判断と宮良先生の念入りな検査で、私は重箱の隅をつつくようにして小さな悪性のがんを見つけてもらった。でも、もし浅黄さんが半年前との変化に気付いてくれなかったら、潜んでいた乳がんは確実に増殖し、結局、私は数年後に、再び乳がんの告知を受けることになっただろう。

 そう考えると、今回の早期に見つかったがんは、私の人生において決してマイナスではなく、むしろ人生をより長く生きるための大いなるプラスではないか。そんな思いを、心配してくれる大勢の人たちに話していった。不思議なことに、何回も何回も同じ話をしていると、心の底から本当にそうだと思えてきた。早期発見だ。絶対に、死ぬわけがない。

 告知から激動の日々が過ぎ、駆け込むように入院して、二回目の手術の日を迎えた。ストレッチャーで手術室に向かおうとするとき「与儀さん、頑張ってね」と、隣の病室のE子さんの声がした。優しくて、暖かく、張りつめていた肩の力がスーっと抜けた。告知を受けてから初めてホッとできて、ポロポロ涙が出た。このときの仲間で、また新たな患者の会ができた。「Wa!の会」である。この会は、宮古島のT子さんの人柄と面倒見の良さで、病院の垣根を超えた大きな「人の輪」に広がっている。

与儀淑恵
「乳がん患者の会 ぴんくぱんさぁ」
同会会長 



闘病記/2回目の「告知」に衝撃/自覚症状なく「信じられない」


 抗がん剤治療最後の日。今日で終わりだと考えるだけで、涙が出るほどうれしかった。「つらい治療だったのに、与儀さんは本当によく頑張ったよね」と、最後の点滴の針を刺しながら看護師さんに言われて、また涙が出た。

 その後、私は二度目の手術をすることになるが、いつも大勢の方に支えられた。とりわけ私の家族への励ましは、本当にありがたいと思った。病と闘う本人がつらいのはもちろんだが、そばにいる家族の心痛は計り知れないからだ。

 主人がとてもお世話になっている方の奥様から頂いた手紙には、北部に単身赴任中の主人が、まめに家へ帰れるようにと高速カードが添えられていた。那覇と名護の離れた生活を心配してくださった真心の配慮だった。主人の先輩で薬局を経営するMさんは、主人をよくお店に呼んでは、最近読んだ本にある先人の生き方など、学生時代のような話をしながら「与儀君が元気にならないと」と励ましてくれた。

 二度目の入院のとき、病室に大きな花が届けられた。家族を乳がんで失った主人のおじさんからだった。「女性ばかりが入院している病室には行きにくいからね」と言っておられた。次々につぼみが開花していく。この花は、私だけではなく"頑張れよ"という主人へのエールだと思う。主人の弟は、看病に来ている私の高齢の母の健康を、とても気遣ってくれた。弟の心遣いを、本当に細かなことにまでよく気付いてくれると、私の母は感心し感謝していた。

 私が沖縄に嫁いで来た年と、翌々年に生まれたおい、亮太と亮二。子どものころは泊まりに来たり、休みの日には一緒に遊びに行ったりもしたが、今では亮太はミュージシャン、亮二は測量の仕事をしている。主人と離れ、独り治療を始めた私を心配してくれた。私たち夫婦に子どもはいないが、私は二人のおいに頑張って生きる姿を示したいと思った。私と家族を励ましてくださったまだまだ多くの方々に、感謝の思いで一杯である。

 手術を終えると六カ月ごとに定期検診を受ける。乳がんは進行が遅いため術後五年以上たってから再発する場合もあり、十年が過ぎてやっと安心できる。毎回の定期検診が異常無しであれば十年の目標に向かって一歩階段を上ることができるのだが、もし、転移していたらと思うと、とても不安で憂うつになる。乳がんが転移しやすいのは骨、肺、肝臓、リンパ節の四カ所。「骨の激痛も、息苦しさも、だるさも、何もない。だから今回はきっと異常なし」と、自分に言い聞かせ、不安を振り払うようにして毎回の検査に臨む。

 「それに、私はあんなにつらい抗がん剤治療をしたのだ。薬は非常に良く効いて手術も成功した。また乳がんなんて冗談じゃない、絶対にあり得ない」と、思っていたことが起こってしまった。二〇〇四年三月十六日、術後二年目の定期検診だった。がんの告知もショックだが、二回目の告知はもっときつい。現実を受け入れられない。あえて一言で言えば「うそでしょう、信じられない」だった。私はどこも痛くないし自覚症状は何もない。検査の結果を主治医の宮良球一郎先生は、とても言いにくそうだった。

 「検査の結果、悪くてね…乳がんだね…」

 それでも私は、宮良先生は冗談を言っているのだと思った。

与儀淑恵
「乳がん患者の会 ぴんくぱんさぁ」
同会会長 



闘病記/仲間との出会いが支えに/患者の会「ピーチパイ」誕生


 手術が無事終わり、麻酔から覚めると、右の肩甲骨から腕がビリビリとものすごく痛かった。手術の時、わきの下のリンパ節を取り除く際、上腕肋間神経(肩、上腕の知覚を支配している神経)を切るためらしい。主治医は「それでも与儀さんは、三本切るところ一本で済んだからラッキーだよ」と言っていた。

 一本で済んでこの痛み? その上、点滴、尿管、心電図や酸素の管が体につながれていて思うように動けず、首、腰、背中まで痛い。もっとつらかったのは、抗がん剤の副作用で薬を飲まなければ眠れなくなっていた私は、結局一睡もできないまま長い夜を、ひたすら朝が来るのを待った。十分が一時間にも感じられ、時間がちっとも進まない。

 小鳥のさえずりが聞こえてきた。やっと夜が明けそうな気配を感じたころ、ベッドを少し起こしてもらってうがいをした。一つずつ身体につながれていたものがはずされ、朝になって身体の自由がもどると、さっきまでの地獄の苦しみはうそのように消えた。

 術後の治療方針は、手術によって切除した組織の病理診断等の結果をみて決定される。病巣は取り除いても、手術の時には発見できなかった小さながん(がん細胞)は血液やリンパの流れに乗って体のほかの臓器に転移する可能性がある。

 そこで、その予防のために術後の補助療法として化学療法(抗がん剤による治療)、内分泌療法(抗ホルモン剤を使う治療)、放射線療法などの治療が行われる場合がある。私のように術前にも抗がん剤を打つメリットの一つは、手術を終えた時点で使っていた抗がん剤が、私のがんに有効かどうか判断することができることだそうだ。私の場合、術前に打っていた抗がん剤が非常によく効いていた、ということで、術後も引き続き同じ抗がん剤による治療が開始された。

 「手術で悪いところはすべて取ったんだから後は自分で頑張りなさい」と言って母は帰った。私も「手術前にやった治療を、もう一度、繰り返せばいいのだから頑張れる」と思った。ところが、手術で体力が消耗していた私にとって、術後の抗がん剤治療の副作用は術前とは比べものにならないほどきつかった。

 同じように抗がん剤治療を経験した友人は「治療の日が近づくと"探さないでください"と手紙を置いてだれも自分を知らない所へ逃げたかった」と言っていたのがよく分かる。私も、できるわけがないと分かっていながら、毎回「今日こそ、抗がん剤はやめたいって宮良先生にお願いする。もう限界」と言って、家を出た。

 そんな私にとって、入院中に知り合った、同じ病気と闘う仲間との出会いは、大きな心の支えと勇気になった。私たち十三人は、この患者の会を「ピーチパイ」(病室の窓から夜になると桃のネオンが見えたことから)と命名した。術後の治療はさまざまだが、全員が抗がん剤や放射線治療を終えて元気になったら、皆で食事会をしようと約束した。

 そして、その年の暮れ、一回目の会が実現した。この日は主治医も出席してくださり、術後の不安なことを質問し、入院中のエピソードにも花が咲いた。そして記念写真を写した。あれから三年半が過ぎた。今でも時々会う人、もう会えない人。知り合ったときはノーメイクで寝間着姿だったが、写真の中ではみんなステキにドレスアップしてほほ笑んでいる。

与儀淑恵
「乳がん患者の会 ぴんくぱんさぁ」
同会会長 



闘病記/プラス思考で勇気奮わす/仲人の励ましが力に


 乳がんの告知を受けたとき、関東の大学病院の医師である仲人の屋嘉比康治さんに電話で報告をした。「がんにかかってしまったということは、とても大変なことだ。しかし、人生の中で抱えきれない困難に直面するときが、だれにでも遅かれ早かれ必ず来る。そして、このことによってどんな困難にも立ち向かうことのできる大きな自分になることができるんだよ」。受話器を持つ手に力が入った。

 「いい結果をイメージすることだ。不安になったら不安がなくなるまで、いい結果が確信できるまで、自分のペースで思い描いていくことだ。そして大事なことは、医師の力を借り、薬の力を使い、そして自分の生命力、すべての力を使って病気に立ち向かい、治すことだよ」。かんで含めるような励ましは続いた。

 「いろんな人を見ているが、結局、人は自分の思ったような生き方になるような気がする。心からの願いは必ずかなうのだから」。生命の底から、がんと闘う勇気がわいてきた。

 手術を一カ月後に控え、私の母が来てくれた。こんな娘の姿を見るのはつらいだろうと思い、電話では、何ともないから来なくていいと言い続けていたのだが、妹から「お母さんは、とにかく一度はそっちに行ってお姉さんの顔を見ないと気がすまないって言ってるから。来てもらって甘えてね」と連絡があった。

 その日、母の乗るはずの飛行機は強風のため羽田で足止めをくい、沖縄に着いたのは深夜になってからだった。この年になってまさかここまで親に助けてもらうとは思ってもいなかったが、家事一切をお願いした。母は私が食べられそうなものを、いつも少しずつ出してくれた。それで、体力が保てた。母はありがたい。もし、母が来てくれなかったら、無事手術はできただろうかと思う。

 二〇〇二年二月八日に手術の日が決まった。八回目の抗がん剤投与を終え、主治医から最終的な手術の説明があった。三カ月間、薬の効き方をみながら、手術の方法の可能性、リスクなどいろいろ聞いてきた。

 「百万のがん細胞が集まって、初めて一ミリのがんができる。たとえ薬でがんの病巣は消えても、周囲にはがん細胞が残っている可能性がある。また与儀さんの場合、石灰化した石があり、この石があると石にまたがん細胞がつきやすい。生きるために手術をしましょう」ということだった。異存はなかった。

 乳がんの告知を受けてから、すぐに手術をする場合、また、私のように最初に抗がん剤による化学療法によってがんを小さくしてから手術をする場合がある。すぐに手術をすれば、とりあえず病巣はなくなるわけだが、私のように術前の抗がん剤投与は、手術までどれだけ抗がん剤が効くのかという精神的なプレッシャーが、とても大きい。

 人の心は一瞬一瞬変わる。絶対にがんに勝つ!と思っていても、具合が悪くなると不安でいっぱいになる。そんなとき、私の人生を考えてみる。乳腺専門の、信頼できる素晴らしい主治医にめぐり合えたじゃないか。私の打っている抗がん剤は、その主治医が、私に一番いい治療法として選んでくれた薬じゃないか。絶対に薬は効いている、がん細胞をやっつけている! それが私の人生だ。

 手術を終え、主治医から結果の説明があった。私の場合、非常によく抗がん剤が効いていたということだった。

与儀淑恵
「乳がん患者の会 ぴんくぱんさぁ」
同会会長 



闘病記/「絶対に負けない」と決意/激しい副作用の抗がん剤治療


 乳がんの治療はとても進歩が早く、良い薬もどんどん開発され、現在では私たちの時代に体験したような苦しい副作用の伴う治療は、もうしていないらしい。

 二〇〇一年十一月二十一日、手術前の抗がん剤による治療が始まった。私の場合、毎週火曜日三週間抗がん剤を投与し一週休む、これで一クール。このパターンを手術前に三回行う。

 「人間には約六十兆の細胞があり、常に新しい細胞と入れ替わっている。前向きなことを考えているときは、前向きな細胞が生まれ、後ろ向きな考えでいると、後ろ向きな細胞と入れ替わってしまう」という話を思い出した。主治医も「非常によく抗がん剤が効いた場合、数パーセントの可能性でがんが消える場合がある」と言っていた。「よし、数パーセントの中に入ろう」。私は決めた。抗がん剤は、私と一緒に乳がんと闘ってくれる「良き友」だ。抗がん剤の一滴一滴を「頑張れよ! 頑張れよ!」と闘いに送り出すような思いで打った。

 同じように抗がん剤を打つ人たちは、数人が一緒の部屋で投与を受ける。今日で最後という人、二回目という人、さまざまだ。私は今日が初めての治療だと言うと、先輩たちが「一回目は大丈夫。気分が悪くなるのは二回目か、三回目からだから」と教えてくれて、少し気が楽になった。

 当時、主人は仕事で名護に住んでいたので、私は家に帰ると独りだった。私のことを心配してくれていた主人や友人たちに、どうやら今日は何ともなさそうなので、大丈夫だと伝えた。ところが、翌日の午後から激しい吐き気に襲われた。

 「ウソ、今回は気分悪くならないんじゃないの?」。副作用は人によって異なるのだ。抗がん剤は回を重ねるごとに体力がなくなり、副作用もきつくなる。抗がん剤と同じ赤い色のものを見ると、気分が悪くなり、めまいがした。主治医の予告通り三週間目でパラパラと髪の毛が抜け、そのうち眉毛、まつげまでも抜けた。

 二クール目に入ると、毎晩同じような夢をよく見るようになった。その夢はまるでサスペンスドラマのような夢で、私は犯人らしき者を、捜しながら追い詰めていく。また、形勢逆転し、必死に逃げるときもある。とにかく、夢の中でずっと闘い続けているため、眠った気がしないのだ。目覚めたとき、とても疲れている。主治医にそのことを話した。

 「それで、最後はどうなるの?」

 「勝ちます。最後は必ず、私が勝つんです」

 「だったらいい。何があっても負けないで、最後に勝っているならいいよ」

 何日かすると、副作用のため私は全く寝付けなくなった。コーヒーを飲んでも何をしても、布団に入れば、すぐ"爆睡モード"に入っていた私には、信じられないことだった。眠くて眠くて、目も痛いのに、頭がはっきりしていて眠れないのだ、癖になったら嫌だから、とちゅうちょする私に、主治医はいつかやめればいいのだから、と入眠剤を出してくれた。

 「今、私が苦しいのは病気のせいじゃない。抗がん剤の副作用がきついだけ。絶対に負けない!」。一日に、何度も、何度も、何度も自分に言い聞かせた。「絶対にがんに勝つ!」

与儀淑恵
「乳がん患者の会 ぴんくぱんさぁ」
同会会長 



闘病記


 「乳ガンだね。こんなになるまで、ほっておいて。どうしてもっと早く来なかったの」 マンモグラフィー、エコーの検査を終えると、外はもう暗くなっていた。やっと、名前を呼ばれ、診察室の中に入っていくと、私の顔を見て医師は言った。忘れもしない、2001年11月6日。私は、乳がんの告知を受けた。

 乳がんといえば「しこり」と思うでしょう。でも、そうとは限らない。奥のほうにあるガンは手に触れない。私たちは患者どおしで、乳がんとわかったとき、どんな症状だったか、という話しをする。しこりには気付かなかったけれど、とても肩が凝ったとか、腕がつっぱったとかいう人もいた。私の場合は、乳頭からの分泌物。夜、はずした下着に、2ミリほどの汚れがついていたのだ。

 「でも先生、良性か悪性かはまだわかりませんよね。」
 「良性のガンなんて無いよ。」さらに検査のための細胞を取った後、追い討ちをかけるように 「いいでしょう、あなたがこの細胞が良性か悪性なのかわからないと言うのなら、誰がみても100%悪性である、ということを証明してあげます。」と言い切った。

 「先生、私の病状はだいぶ進んでいるのですか?」医師の様子から、かなり悪いことは察しが着いたが、私は助かるのかどうかを知りたかった。

 「どんな人も、治すという結論は一緒です。そのために、その人にあった治療をします。与儀さんにも、与儀さんにとって一番いい治療をします。頑張りましょう」と医師は大きな声で言うと、初めてニッコリ笑った。

 普通、ガンの告知というのは、患者の心を傷つけないように、やさしく、本人にはあまりはっきり言わないもの・・・と思っていたが、私への乳がんの告知は、かなり厳しく、はっきりしていた。でも、私にとって、これ以上完璧な告知はかった。

 実は、私のこの症状は2年ほど前からあった。そのとき最初にかかった病院で、同じようにマンモグラフィー、エコー、そして分泌物が乳がんからくるものかどうかを検査した上で、“乳がんではない”と、診断されていたのだ。
 
もちろん、告知の方法はケースバイケースであり、必ずしもはっきり言うことが正しいとは限らない。ただ、私の場合、“乳がんではない”という診断をはっきり否定し、戦うべき相手は乳がん、そして、その先は「治す」というゴールを示してもらったことにより、苦しい抗ガン剤の治療を乗り越えられたと思う。

 4日後、主人と私は主治医から病状の説明を聞いた。私のガンはV期で9センチに広がっており、状況的にはガン細胞が体中を流れている可能性がある。そこで治療法としては、まず抗ガン剤を9回投与し、体中に流れているかもしれないガン細胞をたたく、そしてガンを小さくしてから手術をし、その後また9回、抗ガン剤をうつ。そして非常によく抗ガン剤が効いた場合、数パーセントの可能性でガンが消える場合がある、とのことだった。

「大丈夫!大きな与儀さんが、ちっちゃなガン細胞に負けるわけない!」友人が言った。

そう、私のゴールは「治す!」

与儀淑恵
「乳がん患者の会 ぴんくぱんさぁ」
同会会長 



患者主体の診療を


チーム医療の実践報告

 乳がん診療の現場ではチーム医療が取り組まれつつあるが「主体であるべき患者が取り残されているのではとの思いから、患者のためのチーム医療を考えるため」(宮良球一郎・宮良クリニック院長)今回の企画となった。

 会では、乳がん診療のチーム医療に関し、県内四病院五十七人の患者に行ったアンケート調査結果を宮良院長が報告。患者の四割がチーム医療を知っていたが、チーム医療が実践されているか気付かない患者も三割いた。

 主治医以外に相談したい人は 1.看護師 2.エコー検査技師 3.薬剤師  、不安や悩みの解消のためスタッフにかかわってほしい時期は 1.乳がん診断後、検査を経て最終治療方針が決まるまでの間 2.治療方針を説明された時 3.抗がん剤治療中  の順で多かった。
今、抱えている不安では 1.再発、予後 2.副作用 3.経済的問題、家族のこと の順で多かった。

 会では、医師から「薬剤師が病棟に常駐し、抗がん剤を使う患者に副作用などを説明することで、患者の受ける情報量が増えた」(東京医大医師)「医師と直接話しづらい場合の橋渡し役が必要。患者の不安を看護師が聞くことで不安が解消できる」(関西大学医師)などチーム医療の意義が報告された。患者も「(流大病院に)科学医療法室ができたことで治療時間内に専属の看護師に相談でき、チーム医療を肌で感じている」と歓迎した。

 一方「乳腺外科医一人で患者を見ていた時は、夜中に呼び出しの電話があっても誰のことか分かったが、チーム医療では患者の顔を思い出せないこともあり、連携の難しさを感じている」(広島市民病院医師)「抗がん剤治療中の患者は治療中にじっくり話を聞けるが、外来患者の不安解消ケアへの対策が課題」(宮良クリニック看護師)など課題も出された。抗がん剤治療中の患者からは「患者が一番信頼しているのは主治医。患者からは他の専門医にどうアプローチしていいのか分からないので、主治医が他の医師や医療スタッフにつなぐ役を務めてほしい」との声も。

 医師側は「主治医の判断で医療の判断を誤るのを防ぐためにチーム医療はあるが、医師や医療スタッフの中で患者が迷子にならないことが大事。患者中心の医療を提供する在り方を全国に広め、乳がん死亡率ゼロにつなげたい」(広島市民病院医師)と結んだ。


7割が選択肢を希望
ファイザー調べ 医師に説明求める

 乳がん患者の七割は、治療方法や薬を決めるとき、複数の選択肢について医師から説明を受けることを希望しているが、実際には希望道りでないケースも多いという調査結果を製薬会社ファイザーが発表した。  五年以内に乳がん手術を受けた二十〜五十代の女性百九十人を対象に今年二月、医師と患者のコミニュケーションについてインターネットで調査した。

 治療法を決めるときの望ましいあり方では「治療方法や薬はすべて医師に任せる」が3.7%、「医師が最良と思う治療方法や薬の説明を受けて患者が同意」23.7%で、基本的に医師に任せる立場が27.4%となった。

 一方「医師が複数の治療方法や薬を説明し、うち医師が最良と思うものの説明を受けて患者が同意」28.9%、「複数の治療方法や薬を説明し、患者が医師と相談して決める」40.0%、「複数の治療方法や薬を説明し、判断は患者に任せる」3.7%と、計72.6%が複数の選択肢を説明された上での決定を望んでいる。

 ところが、複数の選択肢を希望していた人のうち38.4%は理想と現実が違ったと回答。「複数の選択肢の説明がなかった」「説明は受けたが相談されなかった」「自分で決めるよう言われなかった」等の理由を挙げた。

 また最近半年間の診療の際、自分から治療方法などを医師に話したことがないのが55.8%と過半数。理由は「何かあれば医師から話してくれる」「自分に知識がない」などで、医師への信頼とともに受身になりがちな側面も浮かび上がった。



「和」その12


「和」新たなる旅立ち

 浦添の地に、「女性のための乳腺・甲状腺専門クリニック」をオープンして8カ月がすぎた。私のライフワークである「乳がんの早期発見と正しい診断・治療」を、新しい発想で、スタッフと力を合わせて実践するため、本当にゼロからのスタートであった。ありがたいことに、患者会、地域の病医院や患者さんの家族の協力の下、多くの乳がん、甲状腺がん患者と、何度も言葉を交わすことができた。「よろしくお願いします」「ありがとう」「頑張ります」「よかったね」一緒に笑い、一緒に涙しながら。


 当院のメーンテーマは「和」を大切にすることである。「南風」では、和にこだわり、和について自分の考えを展開してきた。当院の待合室には、穏やかに、そして確実に時を刻んでいる柱時計がある。その下には、送り主のネームプレート《日本乳ガン学会理事長 坂元 吾偉(さかもと ごい)》。


 私を乳がんの世界に引きずり込んだのは、前癌研附属病院乳腺外科部長の霞富士雄先生であるが、乳腺学を志す人は、礼儀をわきまえなければならない! と教えてくれたのは坂元先生である。先生は、癌研究所乳腺病理部部長であり、その部長室に居候していた私は、顕微鏡を通して、乳がんを診断する眼に加え、一流の人間を見極める眼をも学ばせてもらった。だから時々、柱時計を眺めては、和を大事にする人たちと一緒に、いつまでも乳がん診療に没頭したいと決意を新たにしている。


 この6カ月間「南風」を通して、さまざまな出会いを経験し、あらためて喜怒哀楽の感情を表現することの大事さに気付いた。感謝したら素直に「ありがとう」と言おう。みんなに「和(なご)み」を与えられるから。そして今日も私は、イメージカラーのピンクのシャツを着て、外来で患者さんを迎えよう。和を大切にして。

●宮良球一郎(宮良クリニック院長)

平成17年12月16日(金)
琉球新報夕刊掲載



「和」その11


 今日12月1日は、私には、思い出がつまった素晴らしい日だ。平成元年の今日、妻の薬指に指輪をはめることで、新生宮良一家が誕生し、翌年初めての子を、この手に抱きながら、親としての責任を自覚した日である。そして私が、宮良クリニックで、ただひたすら乳がん治療にのめり込むことができるのは、美代子クリニックの存在があればこそである。そのオープンの日が3年前の今日なのである。ただ感謝あるのみである。

 「和」の最小単位は「家族」ではないだろうか。「家族」の「和」無くして、大きな「和」は語れない。
 コラムも終わりに近づいてきた。今回は私の「和」の原点“宮良家の人々”を、少しとりあげて、心のつながりを探ってみたい。

 小浜島で、祖父母の一心に孫を愛する姿をみた。島を離れる日、トラックの荷台に乗って、船着き場へむかう私の姿が見えなくなるまで、走りながら、いつまでも手を振っている祖母の姿が、ついこないだのように、鮮明にまぶたに浮かぶ。明治44年生まれの祖母は今も健在だ。

 石垣島で、父は威厳を持ってわれわれに接し、対する母は、笑顔を忘れないこと、真摯(しんし)に生きることを実践し、4人の子供はその背中をみて育った。「勉強しなさい」とは言われなかった(たぶん)。姿勢を正して食事すること。ちゃんと挨拶(あいさつ)をすることなど、人として当然のことを厳しく諭された。

 宮良クリニックの開院式で、母が私に歌を披露してくれた。「空高く 舞い立つ鳥に光りさし、姿うるわしく飛びて行かん」。さらに妻美代子にも「夫婦鳥(めおとどり) 仲睦(むつ)ましく高く飛べ、翼の長さ倍に広げて」。母の深い愛情に涙した。ありがとう。かあちゃん!

●宮良球一郎(宮良クリニック院長)

平成17年12月1日(木)
琉球新報夕刊掲載



「和」その10


 7月から人間性を重視した「和」の大切さを追求している。「和」は仲良しクラブではない。前向きな協力が「和」をはぐくんでいる。

 乳がんは、一般の外科医が片手間に治療できるほど生易しいものではない。だからといって乳腺外科医1人でも正しい治療は行えない。 優秀な放射線技師、検査技師が撮った画像で診断し、細胞検査師や病理医の手で診断がついて治療が開始される。 乳腺外科医が手術を担当するが、それだって麻酔科をはじめとした手術室の協力無くしてできない。

そして術後の正しい乳がん治療を行う上で、看護師の存在は不可欠だ。彼女らは、私と患者の間に立ち、抗がん剤治療など、辛(つら)い治療を受けている人への励ましを忘れないし、術後のリハビリや副作用への対応も速やかである。
さらには、「患者会」のメンバーも、心の支えになっている。だから私も患者さんも、安心して治療に臨める。乳がん治療には、心を通じ合わせるチーム医療が不可欠である。

 当院は小さなクリニックだ。当然患者さんすべての要求をカバーできない。そこで多くの病院、クリニックと連携を結び、患者さんが安心して通院できるような地域のチーム医療の形成をはかっている。
がんの告知をうけると、患者さんは不安に苛(さいな)まれ、眠れない日々を過ごすこともある。そこに登場するのが精神科医である。乳房再建には形成外科医が必要、生活習慣病対策もしなければならない。胃腸の検査も必要だ。その道の専門医が、二つ返事で本当に温かみを持って治療してくれている。
妻(美代子クリニック)の存在も、私に安心を与えている。「患者さんのために」を合言葉にしたチーム医療は今、地に足をつけて確実な歩みを始めている。「和」が「輪」になって。

●宮良球一郎(宮良クリニック院長)

平成17年11月17日(木)
琉球新報夕刊掲載


「和」その9


 甲状腺の病気で命を落とすことはまれだが、患者は良性でも、不治の病を宣告されたように「私は大丈夫でしょうか?」と突然うろたえ、顔からは生気が消える。
私はコホンと咳払いをし、まじめな顔で「大丈夫ですよ。次の外来日は120歳になった時にしましょう。きっと私はいないので、別の先生に診てもらって下さいね」

 乳がんとなると、そういう訳にはいかない。やはり病状に応じて適切な治療が必要だ。しかし、懸命に最善の治療を選択しても、命の炎が尽きてしまう患者がいる。ほとんど進行がんで見つかった人たちだ。 彼女たちの悲しみにあふれた目を、私は一生忘れないだろう。早期発見されていれば、今も私の外来で笑顔を振りまいているのだから。

しかし、残念ながら多くの健康?な女性は「私だけは乳がんになるはずがない」と確信している。実は健康な女性のほうが乳がんになりやすいという事実に耳を傾けてくれたら、毎年繰り返される「乳がんですね。リンパ節に転移もみられます」「え〜!どうしてですか、私は今まで病気なんかしたことがなかったのに」。こんな会話が無くなるのに。

 乳がん撲滅運動のシンボルマークであるピンクリボンをご存じだろうか。米国から始まり、日本でも10月をピンクリボンキャンペーン月間とし、東京タワーをピンクに電飾したりして、懸命に乳がんの早期発見の啓発運動をしている。
アメリカは検診率が60%を超え、死亡率が低下した。日本は10%足らずで、死亡数は昨年ついに1万人を超えた。皆望んだ死ではない。
 視点を変えよう。男性諸氏に、愛する女性の背中を押して、正しい乳がん検診を受けに行ってもらおう。誰だって泣き顔より笑顔が好きなんだから。

●宮良球一郎(宮良クリニック院長)

平成17年10月27日(木)
琉球新報夕刊掲載


「和」その8

 今週私に「和」の重要性を説いてくれた2人の先生に会ってくる。

 霞 富士雄…癌研附属病院乳腺外科部長、乳がんの世界に足を踏み入れているもので、その名を知らないのはモグリである。卓越した技量に加え、抜群の記憶力を武器に、新しい発想で乳腺学をリードしている。しかし、その素晴らしさは、学問だけではなく、その人間味あふれる態度にある。決して奢(おご)ることがない。患者にも、われわれにも。

 沖縄で霞先生の講演に感銘を受け、勢いで上京し、アポ無しで乳腺外科研修を志願してきた向こう見ずの輩を、門前払いせず、先生自ら机とロッカーを準備してくれた。お金もなく、厳しい研修ではあったが(1年で8キログラムも痩(や)せた)、寝ている以外は「乳がん」に対峙し、「乳がん」をひたすら追求できたのは、霞先生のサポートがあったからこそである。
そして日本各地にいる若手の乳腺外科医の多くは霞先生の薫陶を受け今活躍している。その霞先生が、今週末を持って乳腺診療の一線から退くことになった。その最後の日、弟子たちの前で最後の講義をすることになっている。われわれは霞先生の「和」の心を次世代の医師と患者へ伝えなければならない。

 堤 寛(ゆたか)…藤田保健衛生大学病理学教授、医学生時代、病理学教室に出入りしていた私に、病理の楽しさだけではなく、医師としての心得を、顕微鏡をのぞきながら、時には冷や酒を片手に、熱く、熱く語ってくれた。先生は、病理医なのに、愛知県の乳がん患者の会の代表世話人をして積極的に活動している。その堤先生から突然「宮良、学生相手に講義してくれ」と連絡が入った。私は2つ返事で承諾した。講義の半分は「和」の重要性を語ってこよう。堤先生の魂の代弁者として。

●宮良球一郎(宮良クリニック院長)

平成17年10月13日(木)
琉球新報夕刊掲載


「和」その7

 医療の世界は、われわれ医師が、まだ中心にどんと構えて、「患者」中心の医療と言いながらも、患者と同じ目線で話を聞いていないような気がする。しかし、病医院の中に患者会を作ろうとする動きがあるという。喜ばしいことである。乳がんの世界から、患者の前に立ちはだかる壁に風穴をあけていきたい。

 前回取り上げた「ぴんく・ぱんさぁ」が活動を開始した。第1号の情報誌発刊を記念して開いた講演会は、不慣れながらも懸命に全て自らの手で準備した。果たして会場いっぱいに乳がん患者とその家族が集まってくれた。熱意は伝わるものだ。興奮した私も思わず講演時間を超過してしまったが、講演後も質問攻めにあった。うれしいことである。本当に患者さんは情報に飢えていた。これから本島の津々浦々まで、乳がんの正しい情報発信を目指す「ぴんく・ぱんさぁ」の活動を、ワクワクしながら見守って行きたい。この熱い思いは多くの患者を惹(ひ)きつけて、きっと「和」を広げていくに違いない。

 実は患者会は本島だけではなく離島にも存在する。石垣島には、方言で桑の実を意味する「ナネーズの会」が活動をしている。主治医は違っても、仲良く情報交換会を開いている。今度の日曜日、石垣市民会館で、私のライフワークである乳がん講演会を新たな気持ちで再開する。運営を「ナネーズの会」に一任した。どんな会になるのか、ワクワク、ドキドキしながら会場に出向こうと思う。

 桑の樹は農家に無くてはならなかった。桑の実は、子供にとりおいしいおやつだった。きっとナネーズも八重山の乳がん患者のよりどころとなるだろう。そして私は、今度の日曜日も「乳がんの早期発見を」と声を嗄(か)らして叫んでいるに違いない。台風が来なければ。

●宮良球一郎(宮良クリニック院長)

平成17年9月29日(木)
琉球新報夕刊掲載


「和」その6

 「ぴんく・ぱんさぁ」。乳がん患者が自らの力で立ち上げたNPO団体だ。「和」その2で、私のまわりには、多くの乳がん患者の会が存在し、活動していることを記したが、それぞれのメンバーは数人から10数人で構成されている。しかし、県内では今や年間300人以上の乳がん患者が発生しているのだ。手術を受け、1人で不安と闘っている患者も少なくない。

 治療法や術後の過ごし方、再発の問題など、「皆はどうしているのだろう?」と相談したいことは山ほどあるのに、その受け皿がどこにあるのかわからない。医者に相談しづらいことだってあるだろう。また家族や友人も手を差し伸べたいが、小さな親切、大きなお世話になりかねない。

 そこで、県内の乳がんを患った、女性同士のネットワークをつくり、「自分は決して1人ではない!」という安心と、乳がんと闘う勇気を持てるように、また「乳がんの正しい情報と知識」を得ることで、不安感を拭(ぬぐ)い、笑顔で前向きになれるようにと、患者の、患者による、患者のための「乳がん患者の会」が、今年ついに立ち上がったのである。それが「ぴんく・ぱんさぁ」。皆、仕事や家庭を持ち、なかには抗がん剤治療を受けながらも、会設立に奔走した。私も陰ながら応援をしてきた。

 「ぴんく・ぱんさぁ」は単なる親睦(しんぼく)の会ではない。患者の立場で、自分たちの言葉で、わかりやすく乳がんの疑問に答えるQ&A集を作成している。また年2回、患者さんとその家族、友人を対象とした「乳がん」講演もあり、今月25日(日)午後1時半よりてんぶす3階で私が露払いの役を引き受けた。はじめは小さい「輪」だが、熱意はきっと大きな「輪」となり、県内を「ぴんく・ぱんさぁ」が疾走するだろう。

●宮良球一郎(宮良クリニック院長)

平成17年9月15日(木)
琉球新報夕刊掲載


「和」その5

 医師と患者の関係は、人間性が希薄で仁術を忘れた医師の存在のためか、権利主張が当然のように振る舞う患者が増えたせいなのか、ギクシャクしてきているらしい。私には理解できない。

 当院クリニックや、妻の美代子クリニックには、書道家の盛島清■先生の壮大な書が、患者を温かく迎えてくれる。その書をみるたび私は陰日向無く診療することの重要性を痛感する。私も末席に加えてもらっている「亜宝の会」からの贈り物だからだ。

 「亜宝の会」。声に出して読むと少し違和感があると思うが、「亜」にはアジア(亜細亜)や次代を担う、との意味があり各界で活躍中の県内芸術家を中心とした親交を深める会である。現在新報ギャラリーで作品展を開いている陶芸の奥原崇仁先生、7月に作品展を開いた玉城栄一先生(洋画)をはじめ、音楽家、琉球古典、舞踏家など多士済々の、心も一流の魅力ある先生方が名を連ねている。芸術とはおよそ無縁な私が何故そこにいるのか。それはこの会を束ねているAさんとの出会いに遡(さかのぼ)る。私が出向中の病院で、まだ一般外科医であったとき、Aさんは他の主治医のもとで入院治療を受けていた。その時主治医をサポートした私の医療行為、言動を目の当たりにし、治癒後Aさんは私に声をかけてくれた。そして無芸の私を魅力的な芸術家の「和」のなかへ引き込んでくれたのである。

 医師は時として自分は偉いという錯覚にとらわれることがある。だから私は常々「実るほど頭を垂れる稲穂かな」を意識し、反省を繰り返す。そうすれば医師と患者は簡単に信頼関係を取り戻せるはずである。「和」ができるはずである。私とA(新垣)さんと亜宝の会の関係のように。

●宮良球一郎(宮良クリニック院長)

注:■は上から今酉皿

平成17年9月1日(木)
琉球新報夕刊掲載


「和」その4

 乳がん治療は日進月歩の勢いで進化している。乳がんの教科書など出版された時はもう書いてある内容が古いこともしばしばある。だから患者とその家族、そして私たちは二人三脚で、常に新しくて正しい治療を選択し、共に歩んで行く。そこには互いがすべてを出し切ったあとの、さわやかな信頼関係がある。

 おっぱいにしこりを指摘され、組織検査を受けたあと、結果が出るまでの数日間は、多分経験した人にしかわからないと思うが、それこそ針のムシロに座る思いだろう。結果説明の日、その不安な気持ちを察し、優しい医者を演じなければいけないのに、心で詫(わ)びながら、患者にはいとも簡単に「乳がんですね」と告げる。「乳がんは決して大変な病気ではないんだよ」「あなたと一緒に闘ってくれる仲間がたくさんいるんだよ」ということに早く気付いてもらいたいと思う親ライオンの気持ちになって、あっさりと奈落の底に落としてしまうのである。その日から本当の意味で二人三脚での闘いがスタートする。

 「私はね、先生、変な話だけど、乳がんになって本当によかったと思っているよ」と外来で、話しかけられることがよくある。奈落の底から這(は)い上がってきた子ライオンたちだ(何故か親ライオンより年上)。乳がんである事実を受け止め、人間はいつかは必ず死ぬという事実も認めた上で、前向きに乳がん治療を受け、人生を見つめ直した結果ではないかと思う。家庭や仕事も大事にしながら、仲間と集い、趣味やおしゃれを生き生きと楽しんでいる。そして彼らは私に続けてこう言う。「もし落ち込んでいる人がいたら、私を呼んでね。先生より何倍も役に立つから」。この信頼関係は一朝一夕には築かれない。旧盆である。祖先に敬意を払い、万物へ感謝を捧げたい。

●宮良球一郎(宮良クリニック院長)

平成17年8月18日(木)
琉球新報夕刊掲載


「和」その3

 「乳がん早期発見」。ライフワークの一つだ。早期発見された乳がんは、ほぼ治るので、検診方法も医師が乳房を視(み)て触る検査(視触診)から乳房レントゲン検査(マンモグラフィー)や乳房超音波検査(エコー)へ移行してきている。理由は早期発見率が明らかに違うからである。23人に1人が乳がんになる時代、多くの女性が、年齢や自分の乳房にあった正しい検査を受け、乳がん早期発見に努めてほしい。切に望んでいる。

 癌研乳腺外科勤務当時、もし乳がんが早期発見されていれば、年間約4千人の患者が、さらに人生を長く過ごせたと試算がでた。年間死亡者の半数は救える計算である。ぜひとも乳がん早期発見の重要性を伝えなくてはいけない。乳がん治療の実力をつけ、診察室であぐらをかいていても、世の女性に正しい知識と検診方法を理解させ、行動させなければいつまでたっても乳がんは早期発見されない。

 「そうだ講演をしよう」。4年前から市民会館や公民館を借りて手作りの「乳がん市民公開講座」をはじめた。宣伝媒体の無い私は、地区の乳がん患者とその家族に応援を求めた。早期発見の重要性を身にしみて体験した彼らは、治療中でありながらも懸命に協力してくれた。そのかいもあって故郷石垣市から名護市に至る11カ所の市町村で「あなたもわかる乳がんの早期発見方法」をテーマにした講演ができた。この場を借りてあらためて感謝したい。

 最近私は講演の終わりや外来で「5人以上集まって、部屋と1台分の駐車スペースがあれば講演しますよキャンペーン」を展開している。これまで数カ所出張したが、私自身も楽しんでいる。希望があれば皆さんもこのキャンペーンに参加してみませんか。

●宮良球一郎(宮良クリニック院長)

平成17年8月4日(木)
琉球新報夕刊掲載



「和」その2

 乳がん治療はEBM(証拠に基づいた医療)である。EBMとは、世界の多くの患者が参加した臨床試験を通して得られた、より有効で、最新の治療を沖縄の乳がん患者さんに提供する医療である。決して一人の医師の経験治療が通用しない世界である。しかし、どんな良い治療もそれを患者が理解し、前向きにならなければ机上の空論に終わる。

 そこでEBMを実践するため、私が患者に求めているのは「笑顔」と「感謝の心」である。英国では進行乳がんに対し、積極的に取り組んだ人は、そうでない人に比べ、はるかに生存率が高いというデータがある。日本でも早期乳がんで前向きな人ほど再発率が低いというデータもある。だから私は患者さんには、いつもこう話している。「前向きになろうよ。笑おうよ。薬を飲むときは感謝して飲もうよ。診察中は下を向かず、私の顔を見てよ」。いつか私の患者全員がオバーになって、オジーになった私に、「昔の治療は大変だったさー。あの時先生の顔が鬼に見えたよ。でもありがとうね」と言ってもらえるように。

 そんな私に強い味方がいる。「ハッピーライフクラブ」「ピーチパイ」「ホッとする会」「芽々の会」「わ」その他名前のない会もいくつか存在するが、皆乳がん患者の会である。互いに連絡をとり、情報交換などで医療の質を監視している。私はメール交換や、誘われた時は、ビール片手に乳がんの講義をする。なぜ私の味方か。乳がんと宣告され落ち込んでいる人や、治療法で悩んでいる人、あるいは抗がん剤で苦しんでいる人に、経験を通して積極的に的確なアドバイスをし、今にも泣き出しそうな顔を「笑顔」にしてくれるからである。ついでに私の自信も取り戻させてくれる。ありがとう。

●宮良球一郎(宮良クリニック院長)

平成17年7月21日(木)
琉球新報夕刊掲載


「和」その1

 単身乗り込んだ癌研究会附属病院乳腺外科、癌研究所乳腺病理で「乳腺学」の魅力を学んできたが、同時に真の意味で一流と呼ばれる人は、学問だけでなく心も一流であることを痛感し、人間として礼節を重んじることの重要性を再認識した。帰郷後は「乳がん早期発見と正しい診断・治療」をライフワークとしながらも「人間の心のつながり」を重要視し日常診察に取り組んできた。

  「人間の心のつながり」とは、生まれた時から人はその方向性が決まっているのではもちろんなく、その歩みを続ける中で、当初は本当に偶然性のたかい出会いからの始まりが、互いを尊敬する中で、紆余曲折の人生を楽しく乗り切るために必要不可欠な存在となり、見えざる糸によって心が硬く結ばれ、切っても切れない人間関係のことではないかと私は考えている。

  田舎出身(実は私の本籍はあの小浜島)の私がはじめから医者を目指した訳でもなく、もちろん私が乳がんを専門にしたクリニックをオープンできたのも、そういった心のつながりがなくては成りえなかったわけである。

  「南風」への執筆依頼があった時、乳がんオタクの私に本当に読むに耐えうる文が書けるのかなと一瞬迷ったが、二つ返事で了解した。どこかで人間は心のつながりが大事なんだと言うことを、訴えたかったからだと思う。我々のクリニックは「和」を大切にすることをメーンテーマにしている。半年間皆さんと「和」の正体を探して行きたいと思っている。

  以前私の妻(美代子クリニック院長)が約二年間月一回連載記事を書いていたことがある。毎日の診察+家事をこなした夜中に文章を練っていた。妻のつめのあかでも少しなめながら私も眠い目をこすり続けたい。

●宮良球一郎(宮良クリニック院長)

平成17年7月7日(木)
琉球新報夕刊掲載

 

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